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改革の歴史
 平成16年春。平成世代がアテネ・オリンピック参加の資格を得ている。まだ時折、私達の世代の人から昭和の年号がとびだす。 多くの人々はその間違いに気付くが、まだまだ気づかず指摘の声もあがらない。しかし時は確実に16年の年輪を刻んでいる。

政治的に検証してみよう

 平成時代は竹下内閣でスタートした。記憶にないと思っている方のなかにも小渕官房長官がテレビで「平成」の年号を示したことは憶えているだろう。 時あたかもバブルの絶頂期。ふるさと創生を提示し、各市町村に1億円のばらまきの大盤振る舞い。まさに狂気の時代とも、今になって思う。 しかし竹下総理も不思議なことに地方と国家の改革を訴えていたのである。

16年で11人の総理
 @竹下内閣があの有名な右翼団体による「ほめ殺し」にあい失脚してA宇野内閣が誕生した。国民に内閣のスタンスを示すまもなく「女性スキャンダル」で崩壊。次に生まれたのはB海部内閣。清潔だけを求めた弱小内閣で自衛隊の湾岸戦争、掃海艇派遣だけが印象の存在感の極めて希薄な内閣であった。そしてようやく永い間総裁候補であったC宮沢氏が誕生する。本格内閣の期待はあったが手腕を発揮する間もなく衆院選でも敗北をきっかけに大臣が総理を批判し退陣するなど異常な混乱を招き失脚していく。そして日本の政界に激震が走り、非自民のD細川内閣が生まれ、戦後一貫して政権を担当してきた自民党は野に下がったのであります。細川内閣の功罪はともかくその政権のバックボーンは「政治改革」だったのです。 しかし政治改革は標題のみで結果として誕生したのは選挙改革、すなわち中選挙区制から小選挙区への変更だけが残った。 この小選挙区制の是非はいずかの機会に改めて特集するつもりであるが、改革の本質に迫るのもではなかった事だけは事実であった。 その細川内閣は総理自ら何故か停年を突如打ちだし退陣していく事態を招いた。新しい政治の歴史に夢を描いた人々の想いを見事なくらい鮮やかに崩壊させたとも云えるのである。そして生まれたのはE羽田内閣であった。 今となってみれば羽田さんが総理であったことすら記憶にないくらいアッという間に退陣していく。その原因は自民党の復権に対する異常な執念であった。自民党は永年の宿敵であった社会党の村山氏を総理に担ぎだすと云う荒業を駆使し、与党にカンバックするのであった。F村山内閣が国中を混乱と何でもありの社会の実現の果実だけを残し発足するのである。その後自民党との直撃によって党の存在価値を失った社会党はその歴史を終え今や社会党となり選挙のたびに議席を減らし壊れていくことになる。 「自・社・さきがけ」内閣はG橋本内閣へと移行する。橋本内閣は「行政改革」を標ぼうしお龍様人気に乗って順調に推移するように見えた。しかしテレビでの税制問題の揺れが指摘され参院選で大敗を喫し退陣していった。次に生まれたのがH小渕内閣であった。橋本の次は小渕。小渕は旧田中竹下派の流れから誕生したものであり、国民には開かれた政党のイメージからはほど遠く又かと云う国民の政治不信は根強く広がっていく。小渕内閣は沖縄サミット記念として発行された「使わない2000円札」だけを残して不慮の死を遂げ終わる。 急な出来事に動転する自民党は幹部5人組が暗躍しI森内閣が誕生する。もともと軽口が危険な内閣であったが「神の国」発言や「愛媛丸」事件で失脚していく。 そして誕生したのがJ小泉内閣である。もちろん目指すものは「聖域なき構造改革」開かれた政党を目指し、党員投票が実施され、今は昔の話となった小泉+田中真紀子フィーバーが国中を掛け巡る展開がくりひろげられ誕生した小泉内閣であった。 こうしてざっと16年を振りかえり、内閣の歴史を巡るだけでも激動の時代がうかがい知れる。同時に「改革」とは何かという原題にほとんど到達していないことだけは鮮明に浮びあがっている。

  「本物の改革」「分権時代の三位一体」とは何か連載として次回以降に記述していきたい。

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