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沢村忠(さわむらただし)さん

 今、格闘技が、若い特に女性の人気を集めている。それも相撲やプロレスではなく、 K ―1やボクシングだ。

 流血や失神がごく普通の過激なファイトが女性の憧れとなっていることに不思議感がある。なかでも K −1の「魔沙斗」や「山本 KID 徳郁」そして「亀田三兄弟」のスター振りには驚かされる。

 しかし今から30〜40年前、現在のスーパースターの人気をすべて足しても足りない位の超スーパースターが脚光を浴びていた。「キックの鬼」「真空とびひざ蹴り」の沢村忠だ。

 昭和43〜52年までの10年間、 TBSテレビ夜7:00〜のキックボクシング中継は1度も他の番組に首位を譲るはなかった。

 今日では信じられない快挙を沢村忠は成し遂げていた。まさに神様、仏様、沢村忠様だったのである。その戦績は241戦232勝5敗4引き分けである。1年間で平均20戦の過酷な試合をこなした文字通り「伝説の男」である。

 私の前にこの「伝説の男」は静かな空間のなかで微笑んでいる。
獣のようなオーラは消えている。しかし身体から発する武士の風情は決して消えていない。むしろ往年より風格溢れるオーラを発散している。

牧島:キックボクシングを始めるキッカケは・・・

 しばしの沈黙。沢村は遠くを見つめる「まなざし」を浮かべながら口を開いた。

沢村:私は満鉄で仕事をしていた父の関係で姉と兄、3番目の子供として「新京」で生まれました。敗戦後、引き揚げ者として日本に帰りました。

 昭和18年1月5日生まれでしたので、帰国は悲惨を極めました。ともすれば異国の土になっていたかも知れないし、残留孤児の可能性もあった訳です。幸いなことに家族全員帰国できました。私はこの苦難に満ちた帰り道、一度も泣くことも、涙を流すこともない幼児だったようです。

 沢村の瞳は心なしか潤んで見えた。これはきっと同じ世代の子供達の苦難に満ちた人生を知っているからであろうと察しられた。

沢村:私の祖父は中国唐手(トウテ)の正師範でした。5才のときから唐手の稽古です。小学校に通う前には抜き手で指はそろい、厳しい訓練に耐える体力と技術を習得していました。

 唐手は空手の原点である。そして正師範の地位の高さを説明する。沢村にとって祖父は最も尊敬に値する師であったに違いない。

沢村:法政一高、日大へと進学した私は、子供の頃からストリートファイトを含め、一度も負けたことはありません。日大3年で全日本学生チャンピオンになり、空手の世界では無敗でした。

牧島:空手界に君臨していた沢村さんがどうしてプロに・・・。

沢村:向かうところ敵なし。絶頂期の私に「野口修」氏がこう語りかけました。「世界で最強」はタイ式ボクシングである。日本のボクサーは足技がない。空手は蹴りもあるが動き・強さは比較にならない。そんなに強いなら、タイの選手と戦ってごらん。きっと赤子の手をひねるように負けるだろう。

 高慢さを見抜いた野口氏の言葉は沢村の胸をえぐったことだろう。彼はこの挑発を受けてたち、日本で初めてキックボクサーとして戦う決意をした。

沢村:昭和41年、デビュー戦KO勝ち!2戦目もKO勝ち!3戦目に運命のときを迎えます。相手はタイの強豪サマン・ソー・アディソンです。

 私は前2戦同様、空手の誇りを胸に秘め、道着でリングに上がりました。「今度も負けるわけがない、空手が世界最強」と信じていたからです。

 今でもそうだが沢村忠には古武士の心が宿っている。礼節とプライドが常に同居し、侍が生きづいている。そしてこれは終生、彼の人生の支えとなるであろう。

沢村:4ラウンド2分53秒、私のKO負けです。全身16ヶ所が破壊されていました。頭蓋骨陥没、歯は7本、肋骨は3本折れていました。リングからそのまま病院に直行でした。

 タイ式ボクシングのテクニックはコブシ、アシ、ヒザ、ヒジ、体の全てが凶器であり、500年の間国技として育成されてきた底力に、たたきのめされた沢村の心はズタズタにされたに違いない。屈辱にまみれ彼は自問自答を繰り返す。そして潔く敗北を認め、心も身体も傷つきながらタイ国へ渡るのである。

沢村:タイのルンピニ系のジムは陸軍が統治していました。私は軍の将校の家に下男として登録され訓練に明け暮れました。

 軍には徴兵で集められた優秀なボクサーが何人もいました。練習にはこと欠きません。日本人の練習生は彼にとって良い標的でした。激しい訓練で私は空手からキックボクサーとして変身していったのです。

  沢村忠の帰国後、野口修氏はキックボクシングのコミッションを立ち上げ、選手の募集と育成に着手する。プロ1号の沢村選手の他に選手はいなかった。国際式のボクサーで名乗り出る者はなく、日本中の空手家に声をかけ選手をかき集めた。同時に月1回だけ「サンデースポーツ」という番組で「キック」の放映がされるようになった。日曜の午後4時だった。

 しかし、この番組は爆発する。視聴率トップを記録するのである。TVは飛びつき毎週放映するようになった。 練習生は全国から集まり、目黒ジムだけで600人を数えた。全国15、16のジムの選手は2,000人を超えた。キック全盛を迎えるのである。

 沢村はトップとして、チャンピオンとして戦い続ける。相手は常にタイ国選手、もはやタイにも敵はなくなっていった。3階級で始まったキックも国際式にならい7階級に編成され武道館でチャンピオンカーニバルが開かれた。15,000人の観衆がつめかけた。

 もちろんメインはライト級チャンピオンの沢村である。相手はタイチャンピオンのモンコントーンである。沢村はここで伝説となる「真空とびひざげり」で4RKO勝利を収める。 未知の技「とびひざげり」である。

牧島:何故「とびひざ」がうまれたのですか・・・。

沢村は意を決したように語り始めた。今までも話したことは無いと言う。

沢村:歴史的にみて1年対500年なのです。日本の武道では手や足を使っても最強のヒザは活用したことが無いのです。手、足で対抗できてもこれでは勝てません。しかし空間を蹴り、重力とひねりで相手にヒザをぶつける。これはタイにはありませんでした。蹴るときには常に軸足が地に着いている。これが常識です。でも常識を守っていれば勝機はないのです。

 私は空を飛びました。

 ”真空”がついたのは当時のアナウンサーの石川顕さんか解説の寺内大吉さんが命名したのでしょう。いずれにしてもこれが私の勝利の方程式になったのです。偶然ではなく。勝つための必然だったのです。

 沢村の瞳は明らかに違ってきた。まるで戦いの場の戦士の顔になっていった。
きっとまぶしいスポットライトが甦ったのだろう。

牧島:一つだけどうしても聞きたいことがあります。動物園でライオン対決した話は伝説として残っていますが本当ですか。
沢村:本当のことです。雑誌社の取材でした。オリの中のライオンと戦えるかという設定でした。もちろんライオンは戦う気もありませんし、間にはオリがあります。今考えてもばかばかしい取材です。
 私はライオンに視点を定め全身から気を発しました。臍下丹田(せいかたんでん)からでる息吹(いぶき)は猛獣といささかも変わりません。今でも当時と変わらぬ気を発散することは可能です。ライオンは振り返り、殺気を込め戦いの姿勢をとりました。私は別に驚きもしませんでしたが、雑誌のスタッフは腰を抜かさんばかりの興奮でした。 ですから真実です。

 侍沢村のリングはいつも戦いの舞台であったことが鮮明に思い出された。

牧島:対戦した相手で最も強かったのは誰ですか。

 沢村は5敗している。3戦目の他に4敗しているのである。しかしこの戦いはいずれもノンタイトル戦であった。従って無敗の王者なのである。

沢村:タイのミドル級チャンピオンであったチューチャイです。私はKO負けしています。確かに2階級上のチャンプであり、グローブのハンデをつけることになっていたのですが、私は断り6オンスで戦いました。しかしチューチャイは強かった。私は完璧にやられました。

 ここでも侍沢村の美学が投影されている。常識的に2階級上の選手とハンデなしで戦うのは無謀ともいえる。

牧島:よくも241戦も戦い抜きましたね。

沢村:試合が終わると私はいつもミイラでした。手も腕もすねも腿も腹さえも腫れ上がりジーンズははけませんでした。ぐるぐると全身にテープを巻き、加熱し、腫れ上がらないように安静を保つ毎日でした。そしてまたリングに上がったのです。

 私の許には何十人もの選手がいました。 そして決して1人では戦えないのです。トレーナーからコーチ、練習相手からスタッフまで大勢の人の助けがあってリングにのぼれるのです。当時私の試合3試合でマンション1戸が買えると言われていました。しかし私のファイトマネーは多くの選手達の生活を支え、更に問題を起こすことの無い様、そして欠かすことの無いスタッフへの感謝の為に消えていきました。

 今でもあの時こうすればなんて考えることはありません。

牧島:最後に最もうれしかったことは・・・。

沢村:昭和49年のことです。日本プロスポーツ大賞を授かったことです。
当時最後まで選考に残っていたのはジャイアンツの三冠王、王貞治さんでした。まさか私がもらえるとは夢にも思っていませんでした。田中角栄総理から「よくやった」と声をかけられ、あの迫力溢れる声は今でも耳に残っています。

  翌年、王選手が授賞し、大賞盃を渡しました。嬉しいというより、キックの世界に栄誉が与えられたのが感動でした。

 沢村は昭和52年10月10日引退を宣言する。現役時代、高倉健や鶴田浩二と共演し度々スクリーン登場した沢村、以後テレビの解説にすら出ることはない。格闘技からもマスコミからもどんな誘いがあっても応じることはなかった。

 沢村忠はキックの鬼として、そして伝説の男として生きることを望んではいない。 しかしいつも武道家として侍として生きつづけることを願っている。まさに本物の男なのである。

 沢村はこう語る。「『キックボクサー 沢村忠』と呼ばれるより『人間 沢村忠』と紹介されたい。」

 沢村忠の本質がここにある。


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